丸山家住宅
● 近代和風建築
  明治~昭和初期にかけて、我が国の木造和風建築は全盛期であり、日本の伝統技術や意匠を継承しつつ、そられを発展させたすばらしい建築物が数多く造られました。

  ≪丸山家住宅≫もこの近代和風建築のひとつであり、歴史文化遺産の保護・活用をしてくための資料『宮崎県の近代和風建築』の中で紹介されています。


南側全景

所 在 地 高原町大字蒲牟田748番地
現 用 途 住宅
建築年代 不明(江戸末期~)
構   造 木造入母屋造
階   数 平屋建
改造程度 一部改造(屋根葺・トイレ増設・床敷)
保存状況 良好
● 近代和風建築的特徴
空間構成 居住空間と土間・かまど空間が分離した造り
建   材 ガラス戸、電灯
構   法 木造在来工法
意   匠 二重屋根
● 沿   革
  丸山家は、町内の花堂地区に所在する。江戸時代の高原郷では代々郷を束ねる郷士年寄職を担っていた家柄で、『高原所系図壱冊』(『宮崎県史史料編近世5』)では、慶長年間にはすでにその姓が登場する。近代では皇族が狭野神社に参拝する際の御用宿をつとめるなど、周囲からも一目置かれていた存在であったようである。
付書院の棚(中原南谿)
付書院の棚(中原南谿)

  また、都城島津氏の狩野派絵師として名高い中原南谿(1830?1897)とも交友が深く、度々逗留しては絵画を残している。
● 外観・意匠的特徴
  建物は、南九州で顕著に見られる「二棟造」と呼ばれる形式である。客間などから成る「オモテ」と居住空間と土間・竈(かまど)から成る「ナカエ」の2棟を、「テノマ」と呼ばれる短い渡り廊下で繋いで、1棟としている。「オモテ」は入母屋造の平入り、「ナカエ」は入母屋造りの妻入りで、互いの妻側を「テノマ」で連結している。つまり、「オモテ」・「テノマ」・「ナカエ」内の囲炉裏部屋と土間が一直線上に配置されている。


  屋根は、当初は茅葺で高さのある寄棟であった可能性が高いが、明治年間に本瓦葺きに葺き替えられている。現在は入母屋造となっているが、茅葺時代の名残りか、屋根軒のすぐ下に庇が廻る。
配置図 配置図
配置図 配置図
● 空間構成
  原型は、天井がなく茅葺屋根の小屋裏が見える状態だったらしいが、瓦葺への変更と同時期に天井が張られたものと思われる。


  3間続きの和室の奥が貴賓室として使われたらしく、床の間・書院・違い棚等が格式を持って配置されている。
床の間付書院 床の間付書院
床の間付書院 床の間付書院
● 内装・意匠的特徴
  「オモテ」は「かしらのま」「なかのま」「こざ」「なんど」の4部屋で構成されている。「かしらのま」は床の間・付書院(つけしょいん)・違い棚を有する。内部の装飾は、欄間に見られる程度で、質素な造りである。長押(なげし)等の釘隠(くぎかくし)には青銅製の鶴形(つるがた)を使う。「なんど」は物置や寝所・便所等に改築されている。「こざ」より板敷きの「テノマ」を通り、「ナカエ」に至る。囲炉裏部屋は現在畳が敷かれて居住区となっている。土間は建築当初に近い形を残しており、倉庫として使用されていた天井裏も明瞭に残存している。
「ナカエ」梁組 鶴形
「ナカエ」梁組 鶴形
● 保存状況
  保存状況としては、建築部材の大半が建築当初のものであるため、梁等に白蟻による食害が見受けられるが、概ね良好な状態である。
● 生活設備の近代化
  江戸時代末に建てられたと推測されるが、屋根葺き変更の際、吹き抜けの天井に格天井を貼り、天井裏部分と居住部分を区画した。その他に度々御用宿を務めている事から、その都度細かな改築を加えている。


  便所については、当初屋外にあったが、大東亜戦争時に師団長の御用宿をつとめた際、現在地に新たに設置された。その他、生活に即した改築では、風呂場等水回りの増設・囲炉裏部屋を居住空間にするなどがあるものの、建物の基礎的な部分に手を加えた改築は屋根以外見られない。
オモテから床の間
オモテから床の間





出典 : 宮崎県の近代和風建築 ~近代和風建築総合調査報告書~